どうして「アートなんて解んない」のか?


若い世代が中心になって、音楽、映画、アート、デザインなど幅広いカルチャーを紹介し、そのシーンを盛り上げようと精力的に活動しているフリーCD/オンラインマガジンのCINRA Magazineが今号は「アートなんて解んない」という”つり”タイトルで、アートについて地に足のついた、幅広いアプローチで、アートを特集してくれている。編集長の杉浦さんから教えていただき、早速オンラインで読ませていただいた。

すばらしい森村泰昌さんのインタビューや、若い作家へのインタビュー、川村記念美術館のガイドツアーのレポートなど、多くの視点で、今号のタイトルへの答えを考えるきっかけを与えてくれる。音楽は毎日聞いているが、美術館にはほどんど行かない、ギャラリーなんて行ったことないといった若い人たちを読者として想定しているのだと思うが、同じ目線で丁寧に編集されている。アートに対するスタンスがちょっと穿っていすぎかなと思う言葉遣いもあるが、まあそれも含めてつりということだろう。

僕自身も、アートの専門的学術的バックグラウンドがあるわけではない鑑賞者の目線で、Tokyo Art Beat、NY Art Beat、アートフェアの101 TOKYOの運営などに携わってくる中で、同様の問いはいつも頭の中にあった。アートがもう少し日本の社会の中で市民権をえるためには、何が障害になっているのか?敷居の高さを多くの人々が感じているのは事実だろうし、その理由であろう予備知識(ここで蘊蓄という言葉はあえて使いたくない)的なものは本当に必要なのか?など、自分自身も(鑑賞者からいつの間にかアート業界者になりつつある自分)釈然としていないことを改めて考える良いきっかけをいただいたので、簡単に自分なりの答えを

どうして「アートなんて解んない」のか?


1, アート・美術作品を理解するのは、人間一人理解するのと同じでそもそもそんな簡単なものじゃない

上記アーティストの森村泰昌さんのインタビュー内での答えは、とても真摯で、大前提として僕もその通りだと思った。詳しくはインタビューを読んでいただきたい。でも、やはりそこに行く一歩手前のところで、引っかかっていたのが次。

2, やっぱり教育が悪いのではないか。

ここで思ったのは、いわゆる義務教育でのアート教育ではなく、主に大学など高等教育でのアート関連が専門ではない人に向けた教育について。僕は、経済学部でマーケティングなどを勉強していたのだが、東京の大学でも、ニューヨークの大学でもなぜか美術史の授業をいくつも取っていた。まあ、好きだったんだろう。その経験からでしかないが、その違いの大きさにとても驚いたのを記憶している。一言で言えば、日本の大学は細かいところを専門的にやりすぎ。アメリカの大学は本当にベーシックな美術史をみっちりやるという感じだろうか。


僕が受けたアメリカでの美術史の教科書がこれ。700ページくらいの分厚い教科書で、西欧だけでなく、アジア、アフリカ、中東などのルネッサンスの前までくらいの美術史が網羅されていて、これを週2回のクラスで1学期間で読み進めていく。ちなみに、2学期目はこれの2巻目でルネッサンスから現代アートまで。これは、必修ではないが、教養課程で選択できるコースの一つ。学校はビジネススクールなので誰もアート業界に進む訳ではなく、専攻はマーケティングであったり、会計であったり、ファイナンスであったりする普通の学生。授業の宿題の中には、メトロポリタン美術館の中国セクションに行って一つ作品を写生してくるというのがあったり、読むだけではない多角的なコースでまあ細かいことはほとんど忘れたが、なんとなくアートへのアプローチのベースを作ってくれたような気がした。


それに比較して、同様に日本での教養課程での西洋美術史の教科書がこれ。著者自身の先生の授業だったような気がするが、この本の内容の専門性の前に知っておくべきことは山ほどあるだろと今思えば驚く。授業を聴いている分には分かったような気になって面白いのだが、教養課程での美術史のクラスとしては明らかに専門性が高すぎて、体系的な知識になっていかない。

ここで僕が言いたいのは、アートを楽しむために高度な蘊蓄が必要とは思わないが、ある程度の浅くとも広い予備知識はやはり必要だろうということ。そして、全般的に日本の高等教育はそれを社会にしっかり教育できていないのではないかということ。

3, 解らないことは全く悪いことじゃないが、学ぼうとしないことは良いとはいえない。

アートを楽しむのに、蘊蓄や予備知識は実は必要ないので、絵を感じて楽しんでくださいということは昨今結構聞くようになってきた。ああ、この絵画は色彩が明るくて、なんだか元気が出てこの絵が好きになったというような体験もあるはずだ。これはこれですばらしいが、やはり僕としては自分も含めてここで留まってほしくない。体感できる楽しさもあれば、背景、歴史、アーティストの考えなどを知ることで、知的に楽しめる面もそれ以上にあると僕個人は考えている。マルセル・デュシャンの便器の作品はやはり体感するタイプのものではないだろう。このただの便器が何が面白いのかで思考を止めるのではなく、どうして、世の中の多くの人はこれを教科書に載せ、大きな美術館で展覧して大騒ぎしているのか?を知りたいと思うことで、アートを知的に楽しむ入り口になって、その後は楽しくなって逆に出て来れないかもしれない。大学で学べなくとも、CINRA magazineでも出ていたが、何が面白いのかわからんと思ったときには美術館のガイドツアーがある。特に川村記念美術館のツアーはすばらしそうだ。何歳になっても学び続けなければ。

4, なんだかんだ言ってもアートはスノッブなものである

最後にちゃぶ台返しではないが、意見はわかれるかもしれないが、とっても原則的にはアートってとてもスノッブなものだという理解は必要かもしれない。ビジネス形態を見たってやはり音楽とは大きく違って、どんな無名なアーティストだって、油絵を売って生活しようと思ったら一枚数十万円にはなってしまう。それを買う形で関わりが持てる人というのは、やはり限られてくる。庶民の楽しみであった浮世絵ですら、美術館に収蔵されて、歴史に載せられてアートになった今ではやはりスノッブなものとも言えるような気がする。美術館で見る作品達は、古くは王様達がパトロンになって創作されたもの。現代アートの持ち主もやはり、昔の王様並みに可処分所得が膨大にある無数の金持ちの人たち。現代アートのマーケットが拡大しているベースの要因は過去には一国に一人しかいなかった王様が、いまでは一国に何千人、何万人といる世界的な経済発展によりそうものだろう。ちなみに、美術館の入場料が高いと思う人(僕自身含めて)が多いと思うが、美術館運営において、入場料収入は5%から多くて20%だという。だからこそ無料にした方がいいという意見も多いのだが、どちらにせよ、前提としてアートはスノッブであり、誰にでも自然にわかる(解ってもらうことが目的の)表現形態ではないかもしれない。アートの持つスノッブさを肯定する気は全くないが、そのことを無視していてもはじまらないと思う。もちろん、自分も含めて普通の人は見ることで楽しめばいいのだが、見ている対象物に対する理解としてこのことは重要だろう。

いうまでもないが、アートが解るということについて、当時者のアーティスト、それを買うコレクター、批評家、鑑賞者それぞれ全てが違う解り方なり、解らない方なりをしており、どれが正解で、常に答えを知っていなければいけないなどということは一切ない。ただ、常に自分がその作品について感じたこと、知っていることと、友人、批評家、学芸員、アーティストなどの考え方、背景などと常に比較しながら、新しいことを常に発見して刺激を受けていくことがアートを楽しむことなのかなと思う。

とても荒いわりに長くなってしまった。
自分自身、まだまだ今後とも考え続けていかないといけないテーマだと思うが、少しまとまった時間をとって考えることができたのはとてもよかった。CINRAの皆さん良いきっかけをありがとう。これからも楽しみにしてます。

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