サマフェス/クラブ化するMuseum
昨日、毎年恒例になったPS1の前庭のオープニングパーティーに行ってきた。毎年、前庭をサマーパーティー会場に変えるために、コンペで選ばれた若手建築家がなんらかの建造物を作って、毎週末にWarm Upという名称で、DJ、ミュージシャン、パーフォーマーなどを交えて、誰でも5ドルで入れるサマーパーティーが行われる。年によっては、浅いプールがつくられてビーチパーティーっぽい演出もなされるが、今年は、MOSという建築グループによる"Afterparty"という、まあリーマンショックやアートバブルなどの次の年としてはお約束のタイトルで、夏とは真逆の雪男を彷彿とさせる毛がぼうぼう生えた建造物。驚いたのが、このサマープロジェクトが今年でなんと10年目ということ。よく考えたら、僕がNYにいた学生時代1999年ー2000年にもやっていてやっぱりNYの美術館は開かれてるなあなんてわくわくしたもの。その頃はじまったんですね。
夏の間、2ヶ月ほどの毎週末ということで10回ほど午後のパーティーが開かれるわけで、アート関係ではない若者達もたくさん。美術館でのパーティーというよりは、美術館の前庭を使った昼のミニ野外サマフェスという感じ。丁度10年目ということで歴史を見せる簡単な展示をやっているのを見ると、始まった切っ掛けは「ハンプトンに別荘が無いみんなでサマーパーティーをしよう。」というようなものだったようだ。NYの金持ちは郊外のハンプトンに別荘を持っていて、そこで夏のバケーションを過す。そのため夏はNYのギャラリーなんかは閉まっているところも多い。でも、お金を持っていない若いアーティスト、アートライター、キュレーターなんかはNYに留まる人も多いわけで、それならとはじまった企画。とても単純なしかけで、前庭に超低予算(うわさでは200万円以下)で若手建築家が会場作りをして、あとは音楽とビール(2種類の生ビール)だけ。そして、夏の午後ー夕方を楽しむにははっきりいってそれで十分なわけで、アート関係者だけではなく、建築関連の人、音楽が好きな人、その友達、その友達の友達と、NYの老若男女が集まってくる。僕はその雰囲気が大好きだし、こういう風に肩肘はらないで、アート、建築、音楽が交わる場をつくれるということ、また美術館でそれが行われていることに、本当にわくわくしてしまう。さらに、美術館にとってみれば、低予算で、通常は美術館には来ない人々にリーチができて、多分収入にもなってしまうはず(入場料5ドル、ビール1杯6ドル、一人10ドル使えば、2000人で200万円)。今では、MOMAでも、Guggenheimでも、Whitneyでも月1や、週1で館内でクラブイベント的なものを模様している。
今では、美術館は、これまでの年配のお金持ちにフォーカスをおいた招待性のオープニングイベントだけでなく、クラブイベントやサマフェスなどに親しんだ若者が、敷居の高さを意識することなく友達を誘って遊びにいくクールな場としての美術館の側面もうまくつくりはじめている。そのイベントをavafなどのパフォーマンス/インスタレーションベースのアーティスト達とうまく作っていくことで、しっかりアートやアートの場としての美術館への架け橋もしっかり作っている。もちろん、プロモーションもFacebook、twitter、メールなど彼らへのコミュニケーションにあったやり方になっている。
これをうまくやるために必要なのは、若者目線による、若者が楽しめるもの、雰囲気、仕掛けだけなのだが、なんとなくシステムのあちこちに”おっさん臭”や”手控えてしまう感じ”がただよう日本の美術館では、簡単そうでなかなかできないかもしれない。美術館でお酒など不謹慎だという議論からはじまってしまっては何もおこらない。
うまく言葉であらわせないが、日本では、”官僚的”、”おっさん臭”、”顔が見える責任者不在での空気を読んだ堅苦しさ”的なものの存在が、何をするにも敷居をあげてしまい、またその分実際のコストまでも上げてしまっている。これは美術館だけではなく、多分、法律、政治、社会一杯にあまねく存在してしまっているので、何からはじめるべきか頭を悩ます部分だが、こんなサマーフェスティバルから突破口が開くのかもしれない。新国立美術館なんか立地条件は最高だと思うが。
ぐちっぽくなってしまうが、新国立美術館にしても、検討中の国立メディア芸術総合センターにしても、どうして全てがおっさん目線の企画なのだろうか?少子化への対策にしても、クールジャパンにしても、著作権管理にしても、日本の発想は全ておっさん目線で、ぼたんが掛け違っていたり、ださかったり、無駄遣いをしていたりで全く未来を見ていない。未来を見据えた若者目線で物事をはじめるにはどうすればいいんだろうか。
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