マディソンスクエアパークに川俣 正とメディアアート
フラットアイアンビルの横にあるマディソンスクエアパークでは川俣正の作品で、木の上に作られた小屋が沢山”展示”されている。鳥小屋にしては大きいし、人は登れないけれど、木の上の小屋というロマンティックな存在そのものがニューヨークのど真ん中の公園にいくつもできていて、それを何気なく見るのはとても気持ちがいい。そう思っていたところに、楽しく拝読しているフランスアート界底辺日記(一瞬タイプするのが憚られるブログ名称ですが、名称なので、、、。)のkanaさんがちょうど、アートフェアーに出ていた川俣正の作品の写真を掲載してくださっていたので、不思議な気持ちになった(悪い意味では全くない)。ちなみに、パリのチュイルリー公園でも川俣正の小屋が展示されているそう。
東京に比べて、ニューヨークには、コミッションで、期間を区切った大掛かりなパブリックアートもとても多い気がする。オラファー・エリアソンの滝、David Byrneの"Playing the Building"など場所としては一回だけのもの、もしくはロッカフェラーセンターの前や、そしてこのマディソンスクエアパークなど場所は一定だが、期間を区切って野外展示をするものなど、多様だ。ビルを建てる際に一緒につくる巨大彫刻作品としてのパブリックアートも多いのだが、そもそもアートの形態が多様化する上で、長持ちする巨大作品だけをパブリックアートとしていく時代でもないだろう。サイトスペシフィックであるだけでなく、タイムスペシフィックであることもとても重要になってきているような気がする。まあ、サイトスペシフィックといったときに、”サイト”には時間軸の概念も入っているとすることもできるかもしれないが、意識の中にはやはりロケーションの意味が強いだろう。ギャラリーや美術館に護られて外からは見えない通常のアート展示や、できたときには華々しいが、奇怪な形をした置物と化してしまいがちな常設の巨大彫刻作品としてのパブリックアートにはない、アートが社会に何らかの働きかけをするという意味での力は格段に強い。アーティストも受け手が全然違って普通の人々であるということをある程度は意識するであろうし。
こういう活動を起こしていくのに必要なものは、「街はモノではなく、運動体であり変わっていくものである」という公的、パブリックな社会的合意形成と、その運動に意思をもって影響を与えていけるお金、つまり公的なお金(税金)と完全にプライベートなお金のちょうど中間点のようなお金、具体的には税制上の優遇が発生する寄付金など、とそのようなお金の存在を規定し、その発生を促進していける法律、システムであろう。日本にも、一定の税制の優遇などは存在するが、その発生を促進するような仕組み、システムにはなっていない。
ダミアン・ハーストの無数のエディション作品について考えたり、一方で、オラファー・エリアソンの滝やマディソンスクエアパークの川俣正の作品を見たりしているうちに、所有されるモノとしてのアート、そしてその囲いをコンクリートで作るためのハコモノ行政の産物としての美術館、それらの存在を支えてきたそもそも所有物に対する私達の執着心を取り払って、モノとして今日はあるけど、明日には無くなるコンセプト、イベント、存在としてのアート、アート活動が増加していくのだろうし、そうなってほしいとよく思うようになった。
全世界的に起きた一連の金融恐慌は、モノが増えていくことでの世界成長がそろそろ限界で(新聞を紙に印刷してほしい人は減っていて)あることを暗示しているようだと感じた。今後は、私達がそれぞれ有限に持つ時間の中身が、どのように密になっていくかの方向性での成長になっていくのだろうかということがなんとなく頭に浮かぶのともオーバーラップする。将来には、所有するよりも、見るという自分の時間のほうがコストが高くつく時代になるかもしれない。(ならないか)
同じマディソンスクエアパークには、今もう一つの作品があって、Rafael Lozano-Hemmerというアーティストのインタラクティブなメディアアートで、"Pulse Park"というもの。上記はプレビュー用のCG。
実際にはこのような感じで、下記の写真のように両手でハンドルを握るとセンサが脈拍をはかって、そのリズムで公園全体が点滅するというもの。ハンドルを握ると何となく公園と自分の一体感のようなものが生まれて高揚感を覚えるし、子供達は無条件に大喜びだしというパブリックアート。7時以降しか作動しないので、昼は木の中の川俣作品を楽しんで、それが見えない夜はこちらを楽しむというタイムシェアリングもばっちりなされている。
11月17日までに会場に行けないよという方のために、簡単なビデオを。
藤高さん、こんにちは。
ReplyDelete私のブログを紹介してくださって、どうもありがとうございます。
最近ねー、このブログの名前やめよっかなって思ってるんですよ。「カナさん、あの底辺日記の」と言われたり、普通に「底辺のカナさん」と言われたりすると自分でつけた名前なのに、少し傷つきますよ。いいんですけどね。
これからも記事楽しみにしてます。