キース・ヘリング、アートに関する文章の翻訳について

私の日々のメイン業務はNY Art Beatの運営なのだが、フリーランスでアートやデザインに関する文章の英語訳、もしくは英語の日本語訳の仕事を頂く機会が結構増えてきた。知り合いのアーティストのポートフォリオ用のステートメント英訳から、全く知らない方からの記事の翻訳、企業や公共機関の仕事まである。

そんな中でも、最近一番大変で、そして一番刺激的で楽しかった日本語訳の仕事を紹介したい。

ナタリー福田さんという方の、ロンドンの大学院での芸術史過程の修士論文で、キース・ヘリングに関するものなのだが、驚くことに、全文が引用だけで構成されていて、固い芸術史の修士論文の形式としては信じられないような、いわば詩的でとてもアーティスティックなテキストなのだ。文学において、50年代にブライオン・ガイシンによって広められ、『裸のランチ』で知られるウィリアム・バロウズなどが多用していたカットアップという手法がキース・ヘリングに大きな影響を与えていたことを背景に、キース自身の言葉、キースのスタジオディレクターの回想、バロウズのテキスト、マティス、デュビュッフェの言葉、キースの作品に影響を与えた書道が結び目となって書道家の寺山 旦中、『表徴の帝国』のロラン・バルトのテキストなどがパラグラフ毎にそれこそカットアップで縦横無尽に再接続されて全体としてキース・ヘリングの世界を再構築しようとしている意欲的なもの。これを論文にしようと思い立った彼女もすごければ、これを通した教授陣もすごいなあと関心した。

様々な時代の様々な国の人の口語体、文語体が入り交じって、前後の文脈から切り離されたパラグラフ群を一つ一つ翻訳していくのは、本当に骨が折れる作業であったし、前後の文脈から切り離されていることで、本来的には誤訳になってしまうような部分もあるいは残ってしまったかもしれないが、全体としては一文一文がエキサイティングで、発見ばかり(そもそもキース・ヘリングとウィリアム・バロウズとアンディ・ウォーホルが実際につるんでいたなんて全然しらなかった。)の楽しい仕事であった。

また、偶然かもしれないが、パフォーマンスアートへの機運が高まっているニューヨークで、最近2つもキース・ヘリングの個展(ダイチプロジェクトとトニー・シャフラジギャラリー)があったり、バロウズの裸のランチを1章ごとに独白していくパフォーマンスに出くわしたりとこのテキストの内容に今関わることが偶然ではないような気になる機会がしばしばある。ご本人に許可を得た上で、下記、イントロから第1章の英文、拙訳を交互に。日本語版をさらにブラッシュアップして出版することも考えているそうなので、興味のある方は是非ご連絡(kosukeアットkosukefujitaka.com)を。また、翻訳のお仕事のご連絡も是非。



THE KEITH HARING CUT-UP
The Motion Line in Keith Haring’s Art & Thought.


キース・へリング カットアップ
キース・へリングのアートと思想における動きの線


INSPIRATION

THIS CUT-UP CONVERSATION ON KEITH HARING WAS PARTICULARLY INSPIRED BY KEITH HARING’S ART, WRITINGS AND INTERVIEWS, JOHN GRUEN’S BIOGRAPHY ON KEITH HARING, BRION GYSIN AND WILLIAM S. BURROUGH’S CUT-UP TECHNIQUE, JULIA GRUEN AND ROBERT FARRIS THOMPSON’S SPIRITS, PLATO’S DIALOGUES AND JACK KEROUAC’S ON THE ROAD.

INITIALLY, CONFRONTING KEITH HARING’S IDEAS WITH THOSE WHICH INSPIRED HIM, AS WELL AS THOSE HE INSPIRED REVEALED INTERESTING. ALSO, THE NATURE OF HARING’S WORK, WHICH DEFIES DEFINITION AND SET MEANING INDICATED THE CUT-UP FORMAT AS THE MOST LOGICAL/NATURAL CHOICE FOR AN INTERPRETATION OF HARING’S ART AND THOUGHT.


METHOD

THE THOUGHTS WERE FIRST COLLECTED THROUGH INTERVIEWS, BOOKS AND MOVIES TO BE EDITED AND PRINTED OUT ON PAPER.
THE THOUGHTS WERE THEN DIVIDED, MARKED AND CUT-OUT ONE BY ONE WITH SCISSORS.
THE BITS OF PAPER WERE LAID DOWN ALL OVER THE FLOOR AND CUT-UP TOGETHER IN ONE LONG ROAD IN AN HOUR AND A HALF TIME, AROUND MIDNIGHT, ON A SATURDAY NIGHT.

OF COURSE, SOME MINOR EDITING HAS BEEN PERMITTED SINCE THEN.


着想

このキース・へリングに関するカットアップの会話は、キース・へリングのアート作品、執筆物、インタビューや、ジョン・グルーエンによるキース・へリングの伝記、ブリオン・ガイシンとウィリアム・S・バロウズのカットアップ技法、ジュリア・グルーエンとロバート・ファリス・トンプソンの精神、プラトンの対話、そしてジャック・ケルアックのオン・ザ・ロードから、ことさら着想を得たものです。

はじめに、キース・へリングの考えと、彼に影響を与えた発想や、彼が影響を与えた発想をつきつけていく作業はとても興味深いものでした。また、定義そのものに挑戦し、型通りの意味付けを拒否するへリングの作品の本質を鑑みると、へリングの作品や思想の解釈としてカットアップの手法を採用することは、一番合理的で、また自然であると考えました。



手法

まず、インタビュー、書籍、映画などから思考を収集して、編集し、紙に印字しました。それらの思考は分割され、印をつけられ、はさみで一つずつカットアップされました。それらの紙片は床中に広げられ、ある土曜日の深夜頃、1時間半の間に、一本の長い道としてカットアップでつなげられたのです。

もちろん、その後、いくつかの些細な編集は施されています。


WILLIAM S. BURROUGHS All writing is in fact cut-ups. A collage of words read heard overheard. What else? Use of scissors renders the process explicit and subject to extension and variation. Clear classical prose can be composed entirely of rearranged cut-ups. Cutting and rearranging a page of written words introduces a new dimension into writing enabling the writer to turn images in cinematic variation. Images shift sense under the scissors smell images to sound sight to sound sound to kinesthetic. This is where Rimbaud was going with his color of vowels. And his “systematic derangement of the senses”. The place of mescaline hallucination: seeing colors tasting sounds smelling forms.


ウィリアム・S・バロウズ 全ての著作物は事実カットアップなのだ。読まれ、聞かれ、再度聞かれた言葉のコラージュ。それ以外のもの? ハサミを使うことでプロセスは露骨になり、またプロセスは拡張、変換可能にもなる。明確で古典的な散文は、再配列されるカットアップによって完全に構成可能だろう。したためられた1ページの文章を断片し、再配列することは、書くということを新しい次元に導くものであり、文筆家が単なる画像を映画的な変動に変換することを可能にするのだ。画像はハサミの下で知覚をずらす。画像を嗅ぎ、視界を鳴らし、音を鳴らし、運動感覚へ。これはリンボーが、彼独自の母音の色で目指していた場所だ。そして彼の「システマティック知覚障害」ででも。メスカリンの幻覚作用空間。色に味が付き始め、音が形状の匂いを嗅ぎ始める。


Keith HARING The way it began, was to draw my tag – tag, meaning signature of what graffiti artists called their name. So my tag was an animal, which started to look more and more like a dog. Then I drew a little person crawling on all fours, and, the more I drew it, the more it became ‘The Baby’. So, on the streets, I’d do various configurations of the dog and the baby. Sometimes the baby would be facing the dog – confronting it. Sometimes, it would be a row of babies, and the dog behind them. I was using these images, always bearing in mind the Burroughs/ Gysin cut-up ideas. And I juxtaposed these different tags or signatures of images, which would convey a different meaning depending on how you combined them.


キース・へリング 自分のタグを描いていくことから全ては始まったんだ。タグ、グラフィティアーティストが自らの名前を叫ぶ署名みたいなもの。僕のタグはある動物だった、それがどんどん犬のようになっていった。それから四足で這っている小さな人間を描いた、描けば描くほどそれは「赤ん坊」のようになっていったんだ。ストリートでは、その犬と赤ん坊を様々に配置していった。時に、赤ん坊は犬に顔を向け、もしくは対決し、時には赤ん坊がずらっと並んだその後ろに犬がいたり。僕はバロウズやガイシンのカットアップのアイデアを常に念頭に置きながらこれらのイメージを使っていた。このいわばイメージによる署名としての様々なタグを並置していったんだ。タグは人々がどのようにそれらを組み合わせるかで違った意味を伝えることができた。


Roland Barthes The text does not ‘gloss’ the images, which do not ‘illustrate’ the text. For me, each has been no more than the onset of a kind of visual uncertainty, analogous perhaps to that loss of meaning Zen calls a satori. Text and image, interlacing, seek to ensure the circulation and exchange of these signifiers: body, face, writing; and in them to read the retreat of signs.


ロラン・バルト テキストはイメージの「艶を出す」ことはないし、イメージはテキストを「図解する」ことはない。私にとってそのどちらも一種の視覚的不確定性の兆候にすぎなかったし、禅が悟りと呼ぶところのあの意味の喪失に近かったかもしれない。テキストとイメージは織り合いながら、「身体、顔、書き物、そしてそれらの中に表徴の後退を見出すこと」などが指し示すものの循環と交換を確かなものにしようとしているのだ。


MATISSE A musician once said: in art, truth begins when one no longer understands what one is doing, what one knows, and until there remains in you an energy all the stronger because it is troubled, constrained, compressed. One must present oneself with great humility, all white, all pure, and candid, the mind seemingly empty, with a spirit close to that of the communicant approaching the Holy Table. Obviously, one must have all one’s knowledge behind one, and yet be capable of keeping the freshness of one’s instincts.


マティス 音楽家があるときこう言った。アートにおいて、真実がはじまるのは、自分がもはや、何をしているのか、何を知っているのかさえわからなくなったときだ。そこに至るまでは、自分の中で真実は乱され、拘束され、圧縮されることで、ある種のエネルギーとして一層強くなっていくのである。大きな謙遜とともに聖餐台に近づかんとする聖体拝領者の精神のような、一見空っぽの心を持って、真っ白で、純真無垢に、率直に自らを保っておく必要がある。もちろん全ての知識を自らの背後に持ちながらも、自分の本能の新鮮さを保ち続けることができなくてはならない。

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